2012年4月30日月曜日

4月 2012


 Sir Joseph Banks(ジョセフ・バンクス卿)の名は、日本ではほとんど知られていないといってよいであろう。バンクスは18世紀の英国に生き、自然誌(Natural History)の基礎を築き上げた巨人ともいうべき人である。あとで述べるように、バンクスは1768年から約3年間にわたるキャプテン・クックの第1回世界探検航海に、科学班の責任者として同行したが、多数の植物標本を収集し、また写生画を作成して英国に持ち帰った。バンクスはこれらの成果を出版するべく、帰国後ただちに1万ポンドの費用を準備し、ロンドンのソーホー地区にある自宅で、植物画の完成と、その彫版(銅版)に着手した。バンクスに同行した画家の一人であるシドニー・パーキンソン(Sydney Parkinson, 1745-71)は航海中に病死したが、はじめに訪れたマディラから南アメリカ南端のフェゴ島・南太平洋のフレンドリー諸島までの植物画はほとんど完成し、その後、ソシエテ諸島以降は採集植物の数がおびただしいたためスケッチしか残せなかった。バンクスは帰国後、フレデリック・ポリドア・ノッダー(Frederic Polydore Nodder)、ジョン・クリーブリー(John Cleveley)、ヨハン・フレデリック・ミラー(Johan Frederic Miller)とその弟のジェームズ・ミラー(James Miller)、トーマス・バージス(Thomas Burgis)等に依頼して、パーキンソンのスケッチ画をもとに彼のメモや持ち帰った標本を参考に植物画を描き直させた。1777年にはパーキンソン自身の完成画も含めた483点が仕上がり、その後さらに作業がすすめられて全部で753点が完成した。

 バンクスはこれらの原画をもとに彫版を作り、新植物記載の論文とあわせて図譜を出版するつもりでいた。そのために腕のよい彫版師を探したが、当時は有名な彫版師はすでに他の仕事に忙殺されており、英国には適当な人材が見つけられなかった。そこで、オランダからゲラルド・シベリウス(Gerald Sibelius)という彫版師をロンドンに招き、その他にダニエル・マッケンジー(Daniel MacKenzie)、ガブリエル・スミス(Gabriel Smith)、チャールズ・ホワイト(Charles White)、ジョン・リー(John Lee)、フレデリック・ポリドア・ノッダー等総勢18名がこの仕事に加わった。

 こうして、植物図譜出版のための銅版は完成したが、新種植物の記載のために、論文を作成していた、植物学者ダニエル・ソランダ一(Daniel Solander)(後述)が病死したためこの方面の仕事は中断されたこと、また、バンクスは王立協会(Royal Society)の会長職をはじめとして多くの事業や仕事に忙しかったこと、そしておそらく資金も不足したことなどから、結局は出版はされないままであった。バンクスの死後、大英自然誌博物館に移管され、保存されていたこれらの銅版を使って、1900-05年にジェームズ・ブリッテン(James Britten)が「キャプテン・クックの航海中、1770年に収集されたオーストラリア産植物図譜(Australian Plants Collected in 1770 during Captain Cook's Voyage)」という著作の出版のため、ロバート・モルガン(Robert Morgan)にこれらの銅版から石版をつくらせて印刷した。

 また、1973年には、ブラント(W. Blunt)とスティアルン(T.Stearn)の監修した「キャプテン・クックの植物図譜(Captain Cook's Florilegium)」の中に、オリジナル銅版から黒単色で30点の図譜が出版されている。

 1980年から90年にかけて、大英自然誌博物館の植物部門にいるハンフリーズ(C. J. Humphries)とディメント(J. Diment)の努力により、バンクスの残した銅版から彩色の図譜か出版された。実に彫版されてから200年たってからのことである。


" hecho "とは何を意味するのでしょうか?

 この印刷技法はヨハネス・ティラー(Johannes Teyler 17世紀)が開発し、18世紀末にバラの絵で有名なピェール-ジョセフ・ルドウーテ(Pierre-Joseph Redoute)が、ステップル画法に関連して再現したものといわれる。ステップル画法は輪郭のない植物画を描く技法である。こうして出版された図譜は17色多色刷で、印刷後に手彩色で細部を補っている。しかし「植物図譜の歴史」の著者であるブラントによれば、バンクス図譜の原画はスケッチ、完成画ともにかなり美しいが、彫版画は彫版師の意欲が感じられず、不愉快なほどであると言っている。一流の彫版師が得られなかったことによるのであろう。

 バンクスの図譜は、マデイラ、ブラジル、フェゴ、ソシエテ諸島、ニュージーランド、オーストラリア、ジャワ島に分けられるが、この中でオーストラリア、ニュージーランドが圧倒的に多い。

 今回の出版は、Alectro Historical Editions及びThe Natural History Museumが行い、100部だけの限定出版である。日本では、雄松堂書店が1990年1月にミキモト・ホールで、ソシエテ諸島の部分だけを展示し、ICU図書館がこれを入手したものである。その一部はこの部屋に実物が展示されているし、また後ほどスライドでお見せする。

II-1. 航海の自的と出発までの準備

ここで、バンクスの植物図譜のきっかけとなった、キャプテン・クックによる第1回世界一周航海のことに触れてみたいと思う。

 この世界一周航海には、三つの目的があったといわれている。一つは王立協会の希望によるもので、1769年6月3日に予定されている金星の太陽面通過の観測、二つ目は英国海軍省によるもので、当時フランスが太平洋海域に出かけて盛んに自国領の拡張をしていたことに対する対抗措置をとりたかったこと、そして、三つ目は新大陸の発見の可能性を探ることだった。


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  1. 金星の太陽面通過の観測
     1639年に一人の聖職者が、金星が地球と太陽とを結ぶ直線を横切るのを観察したが、地球と太陽との距離を正確に測定することには失敗した。このような観測は、より正確な航海をするために必要であると信じられていた。この金星の横断は1761年にもあり、再び観測されたがやはり失敗に終わった。次の機会は1769年の6月であるが、これを見逃すと、あとは1874年まで待たないといけなかった。つまり1769年6月の観測は18世紀最後のチャンスであった。そこで王立協会では、1769年にはぜひ観測を成功させなければならないと考えた。1766年から観測地点について検討がなされており、太平洋上の島がよいということになったのであるが、これらの島々についての航海記録は当時まだ貧弱なものであっ� �。クックの航海以前には、例えばスペインのTorresとQuiros(16世紀)が多くの島を見ているし、Tasman(オランダ)は17世紀半ばにタスマニアを発見し、ニュージーランドの西海岸を遠方より望み見ている。また、その後1764年に英国海軍省はドルフィン号とタマール号の2隻の船を世界就航に送っている。また、その2年後にSamuel Wallisを船長としてドルフィン号ともう1隻スワロー号(Carteret船長)を2度目の探検に送っている。いずれも、航海は失敗であった。しかし、WallisはTahiti(Otaheite)の位置確認には成功していた。そこで、観測はタヒチ島で行うということに決まったわけである。
  2. 未知の南太平洋の大陸
     当時、南太平洋海域には広大な未知の大陸があると信じられており「Terra Australis Incognita(The unknown southern land)」と呼ばれていた。王立協会のメンバーであったアレグザンダー・ダルリンプル(Alexander Dalrymple)は、当時南太平洋(South Sea)の最高権威者とされており、彼はそのような大陸の発見されることを強く主張していた。先のTasmanによる航海の時、ニュージーランドの西海岸を望み見たという報告が未知の大陸の存在の傍証ともなっていたわけである。その時、バンクスもこの見解を信じていた。

 王立協会は大きな影響力をもっていたが、金持ちではなかったので国王(ジョージ3世)に対して、4000ポンドと船の寄付を申請した。また、政府はこの計画を海軍省を通して支援することに決めた。これは、フランスの太平洋海域での勢力増加に対処するためであった。

 王立協会は、はじめダルリンプルが遠征の指揮をとることを許したが、海軍省はこれを拒絶し、当時一般には無名であったジェームス・クック(James Cook)を船長として指揮をとるように任命した。クックはそれまでに、カナダのキュベックへの遠征で海軍省には絶大なる信頼をおかれていた。未知の大陸の発見をも目的としながら航海するには、Rolling fortiesと呼ばれる南緯40~50度の海洋暴風圏帯のかなたの未知の海域へ立ち入らなければならない。そのような航海技術をもっているのは、クックしかないというのが海軍省の判断であった。

 王立協会がなぜバンクスを選んだかということは、はっきりと分からないが、一つには1万ポンドの費用を負担したということ、また、バンクスには王立協会で影響力の大きい知人・友人を多くもっていたこと、子供時代からの釣仲間で海軍省ににらみのきいたサンドウィッチ伯爵(Lord Sandwich)がいたことなどで、王立協会と海軍省の両方から支持を得ることができたといえよう。いずれにしろ、かなりのロビー活動をして自分が乗り込めるように運動したと考えられている。バンクスの科学班はバンクスを含めて10名であった(表1)。


カナダの痛みの研究
表1 バンクスの科学班のメンバー
Daniel Carl Solander リンネの高弟、植物学者
Sydney Parkinson 植物画家
John Reynolds 植物両家
Alexander Buchan 風景画家
Herman Diedrich Sporing 科学関係の秘書役、デッサン画家
James Roberts LincolnshireのRevesly Abbeyの召使い
Peter Briscoe 同上
Thomas Richmond 黒人の召使い
George Dorlton 同上
2匹のグレイハウンド
Chades Green* 天文学者
*Royal Societyが任命。Cookと共同で金星観測にあたった。

 他に、各種の測定機器や生物収集のための器具・装置などをいっぱい持参した。Royal SocietyのFellowであったリンネの弟子John Ellisがリンネに送った手紙によると、「自然誌(探索の)目的のために、これほど適切な条件で航海に出かけた者はかつてなかったでしょう。彼等は素晴らしい自然誌の図書館を備え、あらゆる種類の昆虫採集と保存のための機器、あらゆる種類のネット、トロール網、地引網、珊瑚礁での釣のための釣針、水の中に入れて深いところの海底を見ることができる奇妙な装置の望遠鏡、動物をアルコール漬けにするためのいろいろなサイズの瓶、種子をくるむためのいくつかの種類の塩類、蜜ろうとヤマモモのワックス、そのうえ、この目的のためだけに仕事をすることになっている多くの人々がいます。……」と、書かれている。この探検行は史上かつてないほどよく準備され、整備されたものであったらしい。バンクスが、経済的に恵ま� � �ていたのでこのようなことができたのであろう。

 さて、クックはこの世界一周航海に出るにあたって、Whithy Collier(石炭船)"Cats" を要求した。この船は船脚は速くないが、非常に安定していて、航海力抜群な平底船であった。ペンブローク伯号と呼ばれていた船を使うことになり、エンディバー・バーク(Endevour Bark)号と改名され、通称エンディバー号と呼ばれた。船長106ft、368トン、最大幅29ft、深さ11ft、最大速度7ノットである。乗組員は総勢94名であった。

 クックは、エンディバー号航海日誌に、「まずOtaheite(Tahiti)に行き、そこで天文観測をしたあと、南緯40度まで進んで南太平洋で島が発見できるか試み、見つからなければ40~35度と西の方へ進み、ニュージーランドに着いて、そこで探検をしたあと英国へ帰る」と目的を書いている。

 王立協会はバンクスの科学班の同行に際し、次のような注文をつけている。土壌の性質、その産物、けものと家禽類、川や海岸で獲れる魚、どのくらいの量が獲れるか、鉱山を発見した場合は鉱物や貴石の標本を持ち帰ること。また、木、果樹、穀類の種子を集めて持ち帰ることなど。

 バンクスの出発に際しては、家族は大いに反対し、探検などの野望は抑えるように警告したが、バンクスは「愚かな者はそうするだろうが、私の大航海は全地球を一周することになるのだから」とコメントしただけであった。他方、彼は何人かの友人からいろいろのアドバイスも受けている。例えば、友人のトーマス・ペナント(Thomas Pennant)は、旅行中に描いた絵は帰国時に関税を払わなくても済むように本の頁の間にはさむこと、傘をたくさん持っていくこと、防水布のコートを持っていくこと、泳ぎのうまい猟犬を連れていくことなどを注意している。海軍外科医のナサニェル・ホルム(Nathaniel Holme)博士は壊血病に関する特別の研究をしていて、バンクスには濃縮したレモンジュースを多量に渡した。バンクスは航海中、壊血病の徴候があらわれると、これをブランデーに入れて飲んだようである。


 当時、長期航海では、新鮮な野菜の不足によって壊血病にかかる者が多く、これが大きな問題であった。クックは航海の間、生肉や塩漬けキャベツを食することを乗員に厳命した。これらを食すると壊血病から守られることをクックは知っていた。生肉を食べることを拒否した船員に対し、クックは鞭打らの刑を与えたほどである。そのためクックによる航海の間、壊血病にかかった者は1人もいなかった。クックの第2回世界一周航海の時は2隻の船で出かけ、1隻はハバイアス・ファノーが船長であった。彼は食事のことをうるさく言わなかったため、彼の船(Adventure号)では多数の壊血病患者が出たのに対しクックのResolution号には1人もいなかったといわれる。


II-2. マデイラ - リオデジャネイロ - フェゴ島

 さて、エンディバー号は1768年8月3日にテムズ川を下り、4日にダウンズで錨をおろし、翌日出航。14日にプリマスに着く。バンクスは陸路プリマスで合流して、船は8月26日にプリマス湾を出航した。

 9月13日、マディラ(Madeira)に寄港、6日間滞在。季節的には探索によい時期ではなかったが、300種以上の植物を収集した。バンクスとソランダー等は、採集した植物を保存したり記録したりするために、採集後すぐに大キャビンで夜明けから夕方まで作業を続けた。彼等は植物だけでなく、ボートで海に出たり、デッキから網を使ったりして海の生物を収集した。バンクスはいろいろなことに好奇心があったようで、例えば、なんでも食べてみることもしたようである。サメも捕獲して食し、結構うまいと日誌に書いている。

 2か月後の11月13日、船はリオデジャネイロ(Rio de Janeiro)に到着。ここで彼等は海賊と間違えられて上陸を許してもらえず、さんざんな敵対行為に出会った。3年前にドルフィン号とタマール号がこの地を訪れた時は、非常な歓迎を受けたと司令官のバイロンが報告していたので、クック等も同じように歓迎されるものと思っていた。交渉の末、やっと食料と水と燃料だけは補給できたものの、クック以外は船上にとどまらざるを得なかった。しかし、バンクスは数人のクルーと共に11月26日、キャビンの窓からロープで下のボートに乗って、警戒の船の音が聞こえなくなるまで暗やみの中を漂い、それから急いで海岸まで漕いだ。町はさけて通り、百姓たちとは親しくすることができ、いろいろなものを安く購入した。わずか数時間のあいだに植物・昆虫を採集し、鳥を撃ち、庭や畑で育っ� �� ��いる農産物を調査した。また海岸の調査も素早くなし終えた。リオデジャネイロの大守(Viceroy)がバンクス等の上陸のことを知り、人をやって探させたが、その頃には無事帰船することができた。もし、捕まっていたらスパイとして投獄されていたことは間違いなかったであろう。ここでは315種類の植物を採集した。

 12月7日リオデジャネイロを出航。1769年1月14日にフェゴ島(Tierra del Fuego)に到着。バンクス等は早速ボートで海岸に行き、4時間ほどかけて100種類の植物を採集した。翌15日、クックは自分が命名した"Bay of Good Success"に錨をおろした。

 余談であるが、クックは新しい島や湾、海岸、村落など至るところで名前をつけ、国王の名において英国領であることを宣言している。今日、南洋諸島、ニュージーランド、オーストラリア等々で、クックのつけた名前がそのまま残っているところが多い。

 15日の午後、バンクスとそのグループは早速上陸した。そこで多数のインディアン(原住民)に出会うが、彼等は友好的でバンクス等を招いてくれさえした。彼等はバンクスが生まれて初めて出会った野生の原始的な人種であったようである。バンクスとソランダーは、このような時のために、自国からガラス玉やリボンなどをたくさん持参していったので、これらを彼等にばらまいた。そのため、何人かはボートでクックの船にまでやってくるほどだった。


 バンクスはさらに詳しくフェゴ島を探求するため、ソランダー、バンクスの召使いリッチモンドと2人の水夫を引き連れて、山の方へ採集旅行に出かけた。下からは草のように見えた山の植物は腰までの高さの固いブナの木で、歩くのに難渋した。高山植物を求めてさらに登っていくうちに天候が悪くなり、雪が降り始めて結局野宿をすることになってしまった。何人もが疲労と寒さのためにたおれ、火を焚いたりして助けを待った。黒人の召使いのリッチモンドと水夫たちは持参したラム酒をあおって雪の中に寝込んでしまい、結局リッチモンドと水夫1人は死亡することになった。たいへん危険な採集旅行であったが、バンクスだけは独り疲れを知らず、多数の植物の採集に成功した。

 バンクスは日誌にこのように書いている。「見かけと形とはヨーロッパの植物とよく一致するが、種の数が多く、白い花が多い。しかし、これらの植物は、かつて見たこともないものであるし、あまりにも異なっているものが多いので、私達は、創造の無限の多様性に驚くことに倦きなかった。そして、神の摂理(providence)が、その創り出したものを(productions)、さまざまな気候に合うようにデザインして、繁殖させている無限の心くばりに敬服した」。


II-3. ソシエテ諸島

 1月21日に出航し、ケープ・ホーン(Cape Horn)に向かい、27日にはケープ・ホーンを回った。バンクスは、2月初め、フェゴ島ではなんともなかったのに、胆汁症を伴う病気になった。ウォーリス船長が1766-67年にドルフィン号で航海した時と同じような病気にかかり、その後ずっとからだの具合が悪かったことを知っていたので、バンクスはとても心配した。しかし、まもなくよくなったらしい。なぜなら、2月5日には2日前に撃ったアホウドリ(albatross)を料理して食べたと日誌に書いてあるからである。さきほどのサメの場合もそうであるが、彼は目新しいものを味わってみるのにとても関心が高かったようである。アホウドリのレシピーは次のように書かれていて、とても美味しいものだと皆に推奨した。「皮をはいだ胴体を一晩塩水に入れておいたあと、湯通しして、水を捨� � �る、そこでごく少量の水で十分に煮込んで柔らかくなったら、風味のよいソースをかけて食べる」。

 さて、ソシエテ諸島で最初に目撃されたのは小さな島のバヒタヒ(Vahitahi)であった。 エンディバー号は島々の間を回り、4月13日にタヒチ(Otaheite, George's Land, King George III Island)のマタライ(Matarai)湾に錨をおろした。タヒチには、1767年にウォーリス船長によって発見された直後の1768年にも、フランスの探検家ブーゲンビル(Bougainville)が訪れているので、タヒチ原住民は非常に友好的であった。

 クックのエンディバー号がマタライ湾に停泊すると、たちまち原住民はカヌーで押し寄せ、ココヤシ、パンの木の実、魚を満載して物品交換を求めた。バンクス等はこれらの品々をビーズと交換した。



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